Tompkins Award for Achievement in Japanese Language Study

ジム・ウィットレッジ (James Whitledge)

この夏私は広島の原爆の所に行き、千九百四十五年の八月の六日に何が起こったか原爆は日本と世界に何の影響を及ぼしているかという事を研究した。原爆の 所には三つの物があり、原爆ドームと平和記念資料館と平和記念公園という物である。その三つを見ていろいろな原爆についての大切な事が分かった。私は広島 に行く前にはもっとアメリカ人の立場から原爆を考え原爆が落とされた事に賛成し、日本人に対するひどい影響と悲しさはよく分からなかった。平和記念資料館 で広島に住んでいた人達の悲惨を見てから私の考え方が変わり、もう原爆に賛成しているかどうか分からなくなり前より原爆のとても悪い日本人に対する影響が 分かった。記念の所を建てた広島政府も広島に住んでいる人も「核兵器を作ったり使ったりしてはいけなく、世界にある核兵器をなくさなければならない」とい うメッセージを伝えたく、私もこのメッセージがとても大事だと思うようになった。どうしてこのメッセージが大切かを分かりやすくするために、ちょっと広島 で調べた原爆の歴史について説明したいと思う。

千九百四十五年の八月の六日の午前八時十五分にリッタルボイーという原爆がアメリカのエノラゲイという爆撃機 から落ちた。ターゲットは相生という橋であり原爆が橋の六百メートルの上空で爆発したら、2キロメートルの半径の中で原爆ドームのビルと相生橋以外建物は ほとんど全部潰れてしまった。ああという間に七万人以上の生命が失われ怪我したり大変火傷したりした人達もずいぶん多かったし、両親や家族の全人が亡く なった人もいたので本当に信じられないぐらい恐ろしい場面だった。爆発の三十分ぐらい後で黒い雨が降り始め、川と湖に入ってから魚が死んで水面に浮いた。 爆弾の光の力で焼けた人達は痛みを除くために水に飛び込んだり飲んだりし、その後病気になって何週間も下痢をしていた。家はなかったし水も食べ物も少なく 汚くなったしインフラはもうなかったから、原爆を生き残った人達には生活が大変苦しくなった。それに大体広島にいた人達は放射能に晒され、そのせいでガン になったり奇形をしている子供を生んだり三四年間後でなくなったりしたケースは珍しくなかった。

ありがたい事に少しずつ日本人は広島を再建し鉄道とか道とか建物などを直しもう一度とてもきれいな町になり、今町を見ると原爆の損害はぜんぜん見えな い。しかし原爆は本当に酷く、まだ日本の社会に影響を与えているから日本人は忘れていない。最後の死亡者数が二十万人以上であり、今でも火傷した人と被爆 者は苦しんでいて、白内障とかケロイドなどという体の問題もある。残念な事に被爆した人は時々健康な人に差別されている。傷は身体的だけではなく精神的な 傷も残り、悲しい恐ろしい思い出を持っている人の数はかなり高いであろう。この悲惨を直す事は大体出来ないが、原爆がまた使われないためにも死亡者を記念 し忘れないためにも広島政府は原爆の所を作った。原爆ドームは千九百四十五年のままで保存され、平和記念公園と平和記念資料館は設計されて建てられた。毎 年八月の六日に政治家とか平和を主張している団体とか核兵器に反対している人などは大勢で原爆の所で集まり原爆を思い出し、核武器がまだ生産されたり売ら れたり試されたりしている事に抗議する。国々が原爆を試す度に広島市長は試験をした政府に反対の手紙を書くという事はもう一つの核兵器に反対する形であ る。

広島に行き原爆からの破壊と死亡についても日本人の核兵器に対して反抗活動についても覚えたおかげで、私の原爆に対する見方が変わった。今核兵器の危な さも八月の六日の事件とその事件の世界に対する影響ももっとはっきり分かった。この理解がとても大事であり、誰でも機会があると必ず広島の原爆の所に行っ たほうがいいと思う。

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